青梅/unripe Japanese aricot

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「うちはほかの木だけで十分だから、前田さんの田んぼの近くにある梅の実、とっていいよ。」

毎年言われていたのに、この時期は田んぼや畑で忙しいからと、取らずに過ごしてきた2年間。僕はなんともったいないことをしていたのだろうか。

田の草取りに合わせて、梅狩り&仕込みのイベントをしようと、持ち主さんに許可をいただき、木の下見をしに行ったところ、あれ?木が5~6本ある。どの木のことだろうと電話してみると、全部取っていいとのこと。えー、マジっすか、と俺、ニヤケ顔。

並んだ木を実際に見ると、テンションがあがってくる。よくよく考えると、「1本の木の実、全部あなたがとっていい」とは、なんと甘美な響きだろうか。それが5~6本もある。梅狩りがたのしみだ。

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青梅はスーパーで買うと、1kgで千円くらいだろうか。値段を見てしまうと、どこかで時給1200円で1時間働いて、スーパーで買ったほうが効率はいい。だが、この木を見てほしい。下草刈りはしているけれど、農薬を使わず、化学肥料をやらず、自然になっているものだ。その中から、一番いい時期に、一番良い実をとって、新鮮なうちに仕込むことができるのだ。梅の木をよく見ると、葉っぱの下に実をつけている。もぎってみると、意外にすぐに取れる。売られているものを買えば、これらの体験や情報は入らない。値段をつけて数字だけで考えてしまうと、もっといいことに気づかないばかりか、落とし穴に落ちていることにさえ気づかずに過ごしていることもある。

梅酒が欲しいなら買えばいい。梅干が欲しいなら買えばいい。ただどちらも、どんなに高価なものでも、買ったものが本当に心からおいしいと思ったことはほとんどない。味噌と納豆は、僕の腕が悪いのか、僕のまわりの菌類がよろしくないのか、まだ買ったもののほうがおいしいような気がする。おいしいけれど、一度も作ったことがなければ、なぜおいしいのか、どのくらい手間がかかっているのかは、頭ではわかっても、そのおいしさを体で感じられる日は一生訪れてはこない。

毎年自分で青梅をとって梅酒をつくれば、どんな梅がおいしいのか、どんなアルコールが合うのか、毎年違った風味を、自分に合った味をたのしめるようになるに違いない。棚をつくって並べて、年別のコレクションなんてのもいい。多少味が落ちるのがあったって、買い物失敗の敗北感を味わうよりも、それをネタに仲間と話をして、自分で作った満足感を感じたほうが幸せだ。そして来年はこうしようだとか、新たなたのしみや意欲に変わる。

自分が青梅を出荷することを考えてみよう。1.道具を準備し、2.収穫し、3.重さを量り、4.袋に詰めて、5.ラベルを貼る。6.車で販売所に持っていき、7.商品を並べる。1kg千円で売れたとしても、経費を差し引くと自分に入ってくるのは、当然千円未満だ。あんまりたのしいことではないように想像する。自分でやれば、3以降の作業は誰もやらなくて済むし、ガソリンは使わなくて済むし、ゴミは出ない。その分、木の持ち主さんに収穫の一部やできたものでお返しをする。心がつながり、循環が生まれる。

消費で終わるのではなく、お返しで終わらせる。すべてのことに循環のデザインを取り入れたいと思っているが、このことはまた今度。

さあ、難しいことはさておいて、ただ梅狩りをたのしみ、ただ梅酒をちびちびやりながら、今年は仲間と梅味噌や梅ジュース、梅干しでも仕込むとしますか。

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田芹/dropwort

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「毎年この時期は田んぼに水が入る前にいっぱい芹を摘んで、セリご飯を作ってたんだけどねぇ。もう食べられないねぇ。」

2011年4月、福島県の富岡町から郡山市のビッグパレットふくしまに避難していた仲良しおばさん3人組を乗せ、会津へドライブに出かけていた車中で、Tさんはそうつぶやきました。

3人は津波のために避難しましたが、福島原発事故の影響で、地元に戻ることができず、仮設住宅への入居を待っていた時期でした。避難所での長い避難生活のストレスからか、3人は次第に仲が悪くなっていき、Tさんは孤立していきました。Tさんはたしか60代でしたが、避難当初は黒髪だったのに、瞬く間に白髪になっていき、おそらくタバコの吸いすぎが原因で肺の病気で入院しました。翌5月に、3人は別々の仮設住宅に引っ越していきました。

旬のセリご飯は、さぞおいしかったことでしょう。僕は原発事故後もなお、事故の原因や責任を追求しないまま原発を進めようとしている人の口に、セリご飯を突っ込んで食わせてやりたいと思いましたが、そんな食べ方じゃ、きっとおいしく感じてはもらえないでしょう。三つ星レストランの料理でも、別れ話をしながら食べたのじゃ、味も覚えていないように。

そもそも僕は、同じ福島県にいながら、セリご飯の味を知りませんでした。僕が小さい頃、母が作ってくれたような気もしますが、味を思い出すことはできませんでした。その後、僕は千葉県木更津市で米をつくることになり、あのときに聞いた田芹(たぜり)に出会うことになりました。

田芹は販売もされる一方、水田雑草とも呼ばれ、稲を栽培するのには邪魔な存在です。大規模に栽培しなくては経営が立ち行かない米農家にとっては、除草剤を使って抑制するのが主流です。僕はたった二畝ばかりの田んぼしかやっていませんが、田舎で老いてたった一人、機械で広い田んぼをやる農家さんが除草剤を使いたい気持ちを、身に沁みて感じています。

ガンジーは言います。

”世界の不幸や誤解の四分の三は、敵の懐に入り、彼らの立場を理解したら消え去るであろう。”

足元にある雑草をみんなで愉しむことからはじめてみても、不幸や誤解が少し減るような気がします。

春にみんなで田芹を摘んで、同じ釜の飯を食べて、季節を愉しむ。

心とお腹を満たしているうちに、むずかしい話はもう解決しているかもしれません。

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思考力/thinkability

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最近僕は何をするのにも時間がかかるようになりました。僕は元々、文章を書くのも読むのも、とても遅いのです。仕事をするときは急ぎがちです。急ぐと小さなことに気を配れなかったり、いいものができなかったりします。現代の社会では、スピードが遅いのは能力が低いとされ、評価も低くみられがちです。鍛えればよくなることもあるのですが、鍛えることよって別のものを失ってしまうこともあるようです。

一般に、能力は「高い/低い」で評価されます。今の世の中で、遅いほうが能力が高いとされることはあるのでしょうか。すぐには思いつきません。中身はさて置き、学力テストで時間内に答えを出せない人や、仕事が遅い人は、能力が低いとされることが多いと思います。

「高い/低い」はゼロが基準になります。地面をゼロとし、高いか低いかは一目瞭然です。「早い/遅い」はある時刻から時計で簡単に計ることができます。僕らは目に見える、計りやすいものだけで評価をしがちではないでしょうか。

表に見えていることだけですぐに解を出してしまうことを、僕はあまりいいとは思いません。言葉や数字は、ものごとを理解するための記号であり、記号化してしまうことで、意味が失われてしまうこともしばしばです。

ある人から、「たのしい」という言葉の語源を聞いたことがあります。「手 伸ばし」から「たのし」に変化したものだそうです。つまり、たのしいとは、手足をのびのびと伸ばした状態のことを言うのだそうです。

日本語では「文化」と訳されているculture(カルチャー)のcult(カルト)には、「耕す」という意味もあるようです。カルト教団など、最近では悪いイメージでも使われることが多くなりました。狩猟採集社会から、食べ物を奪い合わずに済むように、土地を耕して特定の作物を育てはじめた人のことを、カルトと呼んでいた時代もあったのかもしれません。そして、作物が育った土地を奪い合う争いが、また始まってしまったのでしょう。

同じ土地で、特定の作物だけを育てると、土地が痩せて連作障害が起きることがあります。里山から栄養が供給されたり、糞尿を微生物に分解してもらい土地に返すことで、循環することもあります。循環しているうちはよいのですが、循環がなくなったら、また土地や資源の奪い合いがはじまるのでしょうか。

耕す(cult)ことが文化だとしたら、「文化 culture」の対義語は、「狩猟採集」や「自然農法」とも言えるのかもしれません。

何かの課題を解決するときに、早く良い解を出せる人は、思考力が高いと言えるのかもしれませんが、良い解とはなんでしょうか。もしかしたら、ゆっくり時間をかけて振り返り、すぐには目に見えないことまで考えぬいたほうが、もっと良い解が生まれるのかもしれません。

目に見える「高い」思考ではなく、ときには土や微生物など目に見えないものにも思いをめぐらせ、時間をかけた「深い」思考も必要なのかもしれません。

タノカルチャーでは、目に見える「高い/低い」だけの解よりも、行ったり来たりしながらたくさん悩み、目に見えないことまで時間をかけて考えた「浅い」解のほうに、いい評価をつけたいと思います。解が出るまでの長い時間を、手足を伸ばして愉しむのです。

あえて記号化してみます。

タノカルチャーでの思考力の物差し: 低い≦高い<浅い≦深い

優劣はつけないほうが、愉しいかもしれませんね。